国家神道・神聖天皇崇敬の「見えない化」 ――右派論客の戦略的言説から現代歴史学者の「思索の旅」へ―― (抄)

『神奈川大学評論』第93号(2019年7月、86−98ページ)から前半の一部を掲載しています。詳しくは『神奈川大学評論』第93号をご覧ください。

一、 葦津珍彦と「天皇の神聖」

葦津珍彦『天皇――昭和から平成へ』

 一九八九年、昭和から平成への代替わりの年の二月に、『神社新報ブックス6 天皇――昭和から平成へ』(神社新報社)が刊行されている。

出版元の神社新報社のホームページを見ると、「会社概要」のトップに「神社界唯一の新聞社として、日本民族の声を代表する週刊新聞を発行し、数々の神道関係優良図書を送り出す」と記されている。「神社新報の歩み」の項へ移ると、「社説 〜創刊六十周年に際しての誓ひ〜」という文章が掲載されている。二〇〇二年に掲載されたもので、『神社新報』は、宗教教団として新たな出発を始めた神社本庁の機関紙であることが明示されている。

敗戦直後の混乱と神道指令の重圧下、国家管理を離れた全国神社の大同団結と進むべき方向性の確立は、全国の神社関係者の喫緊の最重要課題であった。当時の先人たちは、互ひの意見や方針の相違を克服して神社本庁を設立、ここに神社界は一応の大同団結を果たして、新たに出発することになったのである。だが、神道指令下の神社本庁には難問が山積してゐた。その最も困難な問題が、占領軍や政府の対神社施策の動向の分析と対応であったことは言ふまでもない。
 かうした占領軍・政府の神社に対するさまざまな施策や行政措置の意図・背景を的確に把握し、全国津々浦々の神社に正確に伝へて、神社関係者に徒に動揺や不安・混乱が惹起しないやう配慮することは、当時の本庁幹部にとって最も重要かつ喫緊の課題であった。
 この課題を解決するため、神社本庁初代事務総長宮川宗徳氏は、「全国の神社関係者に対する情報連絡指導の機関」としての本庁及び全国神社の新聞が是非とも必要と思慮し、昭和二十一年五月に神社本庁に編輯課を設けて神社新報社を発足させた。

 葦津珍彦はこの神社新報社を拠点として言論活動を続けた人物で、神聖天皇崇敬を基軸とした大日本帝国の体制を是とする立場から戦後の神社神道をリードしてきた存在である(藤生明「日本会議と葦津珍彦」『現代宗教2018』国渣宗教研究所、2918年、http://www.iisr.jp/journal/journal2018/P091-P110.pdf)。

「神聖をもとめる心――祭祀の統治への影響」

 『天皇――昭和から平成へ』の目次を見ると、本書は「緒言」に続いて次の一〇章からなっている。

  • 現代世界の国家構造解説―天皇国日本
  • 天皇の祭りと統治の関係
  • 神聖をもとめる心―祭祀の統治への影響
  • 『対話』皇室文明史
  • 祭りと祭り主
  • 皇祖天照大御神―神道論私説
  • 世界を瑞穂の国へ
  • 戦争責任論の迷妄
  • 昭和から平成へ

天皇陛下崩御―奉悼のことば、祖宗の神器御承継―萬世一系の荘厳なる古儀、平成の元号定まる―日本文化の伝統をん守り、平成の新帝への忠誠

  • 日本の君主制

 以上の目次から、本書全体の流れが察知できると思うが、世界に多々ある君主制と同様、現代世界のなかで有効な制度として日本の君主制はあるとし、君主制を擁護する。その上で日本の君主制、つまり「天皇国日本」の特殊性を「祭政一致」に求め、それが平和と結びつくことを印象づける。そして、祭政一致はや万世一系の皇室、ひいては皇祖神、天照大御神への信仰・忠誠にまで至るはずのものであることを示そうとするのである。

その際、要となる言葉の一つが「神聖」である。第三章「神聖をもとめる心―祭祀の統治への影響」では、冒頭に、日本国憲法が国家の神聖性を否定していることを否定的な事柄として取り上げている。「日本のいまの憲法は、有名な戦争放棄の条文ばかりでなく、世界の憲法にまったく例のない特殊な法思想の上に立ってゐる条文が多い。祖国への神聖感、忠誠をまったく否定してゐるのも、そのいちじるしい例である」(四七ページ)。

「神聖な天皇」こそが日本の君主制の特徴という論

これはもちろん論争的なテーマの導入であり、すぐに論題が明示されていく。実は、「天皇の神聖」こそが問題なのだという。

忠誠を否定し、祖国の神聖感を否定してゐる。それでこの憲法は、真に自由で文明なのだといふのが、護憲論者の説である。はたして、忠誠とか神聖とかいふのは否定さるべきことなのだらうか。帝国憲法では「天皇の神聖」といふ語があった。これを大変に旧時代的な異例のもののやうに評する者があるが、無知もはなはだしい。民主的な王制のデンマークでも、スウェーデンでも、ノルウェーでも、その憲法では、国王の神聖は明記されてゐる。国の元首の神聖を憲法で明記するのが一般の通例なので、いまの日本国憲法のやうに、国の象徴たる天皇の神聖をことさらに明記しないのが異例変則なのである。(四八ページ)

 実際には、神聖天皇を掲げることによって、国民の思想信条の自由が著しく限定され、国民が神聖天皇崇敬を身につけることによって、立憲政治の体制が維持できなくなり、「億兆」が宗教的信条を共有するかのような体制へと進んでいった。それによって強引な思想統制や攻撃的対外政策へと進むことになり、人命を軽んじるような軍事行動へと突き進み、多くの人命が失われ、ついには国家体制の崩壊を招くことになった(拙著『神聖天皇のゆくえ』筑摩書房、同『明治大帝の誕生』春秋社、ともに二〇一九年)。ところが、葦津の論は、「神聖天皇」と「失敗の本質」(参:戸部良一他『失敗の本質』ダイヤモンド社、一九八四年)の方には向かわず、日本の「天皇の神聖」のすぐれた特質と見えるものの方へと向かっていく。

英国や北欧諸国の国王は、キリスト教のプロテスタントの防衛者としての任務をもってゐる。だが日本の天皇は、一教会の信仰防衛者といふやうなものではなくして、皇祖神に対する祭り主なのである。そこには、自らに異なるところがある。ここでは、主として日本天皇の神聖感について語り、天皇の神聖といふことが、日本人にとって、いかなる意味を有するかといふことの一端を、改名したいと思ふ。いまの日本人は、神聖などといへば、通常の人間心理とは、ほど遠い非常識な不自然のことのやうに思ふ者があるらしいが、それは誤りである。

 ここで、葦津は「神聖を求める心」の一般論に話を移す。これは宗教論とたいへん近い議論のように見える。「人間は、だれでもが神聖なるものを求めてゐる。高貴なるものを求めてゐる。それは、人間が、自らが神聖でなく、崇高でなく、心中にいつも罪とけがれのさけがたい存在であることを深く知っているからである」(四九ページ)。

背後にある神権的国体論

ただ、ここで「罪とけがれ」という言葉が用いられているように、自ずから神道と天皇の祭りこそが日本人にふさわしい「神聖を求める心」だという方向に誘導されていく。

日本では、遠く悠久の古代から祓ひが行はれ、祭りが行はれて、民族の中にこの「神聖を求める心」が保たれてきた。村々では、人々の罪けがれを祓ひ浄めて、人々が神々の恵みのもとに仕事にはげみ、豊かな経済をいとなみ、穏かで安らかな共同社会が保たれることが祈られた。

 それは村ばかりでなく地方の国々においても行はれたし、そのすべてを統合しては、天下の祭りとして行はれた。ここで天下といったのは、近江とか摂津・河内などといふ一国ではなく、日本国土すべてといふ程の意味であっって、その祭り主こそが天皇である。(五〇ページ)

こうして葦津は「天皇の神聖」の教説の核心に入っていく。これは神権的国体論(佐藤幸治『立憲主義について』左右社、二〇一五年)の中核的教説を引き継いでいるが、それが「祭政一致の政治」や「統制権」に関わるものではなく、「平和」を代表するものとしての「祭り」という方向で提示されていく。

祭りこそは天皇の第一のおつとめである。だから天皇は、御即位後に大嘗祭の重儀を行はせられ、その後毎年、数々の恒例臨時のお祭りをなさるのみでなく、日常不断に祭り主としての御生活をなさる。その天皇のお祭りなさる第一の神は、皇祖神(天照大御神)である。皇祖の神宮は、伊勢に鎮まりまずが、皇祖からお授かりになった三種の神器の中で、御鏡は内侍所にあり、剣璽は常にお近くの剣璽の間にあり、天皇は常に神器と共に進退される。皇居の外に御出ましになる時には、必ず剣璽を捧持した侍従が御供をする。それが萬世一系の不動の御おきてであった。日常、片時といへども、神明への祭りといふことから、御心を遠ざけることがない。(五一ページ)

 ここには、神聖天皇をめぐる歴史像が描き出されている。まず、神聖な天皇の祭りが神聖を求める国民全体の心を統合するという体制が古代から一貫して続いてきたとされる。そして、それが戦前の体制にも引き継がれたこと、また、第二次世界大戦後の占領と日本国憲法によって深く傷つけられ、後景に沈んでしまっているということも述べられている。こうした歴史像は、日本の宗教史、思想史、政治史、憲法史が明らかにしてきた歴史像と異なるところが多い。神社本庁のように神権的国体論を是とし、全国民に神聖天皇崇敬がゆきわたることを目指す宗教=政治的立場からの歴史像である。

ここで「見えない化」されているものがある。それは近代日本の神聖天皇の歴史、神聖天皇の崇敬であり、それが日本社会にもたらした大きな影響の諸側面である。このような「神聖天皇」の近代史については、第二次世界大戦後、「国家神道」の問題として論じられてきた。国家神道や国体論や天皇崇敬については、歴史学だけではなく、社会学、政治学、憲法学、宗教学、教育学など多くの分野で成果が積み上げられてきた。だが、そうした歴史像はすべて占領軍の方向づけに従った誤った歴史観に基づくものとされてしまう。葦津の神聖天皇論で見えない化されているのは、戦後の宗教=政治論の文脈でいうと国家神道の歴史の問題である。実は葦津はそのことは百も承知で、昭和から平成への時代転換を見越して、国家神道論についても布石を打っていた。

二、狭義の「国家神道」の言説戦略

『国家神道とは何だったのか』が目指すもの

 葦津珍彦著、阪本是丸註『国家神道とは何だったのか』(神社新報社)が刊行されたのは、一九八七年である。この書物は二〇〇六年に『新版 国家神道とは何だったのか』(神社新報社)として再刊されている。新たに阪本是丸の「発刊にあたって」、藤田大誠「「神道人」葦津珍彦と近現代の神社神道」、齊藤智郎「『国家神道とは何だったのか』と国家神道研究史」が付されている。この書物の主要な論点は、一九七〇年代、八〇年代に影響が大きかった村上重良(やそれと同一歩調をとる憲法学者)の国家神道論を批判し、まったく異なる国家神道の歴史像を提起することにある。

この路線は、GHQが指示した「神道指令」による神社神道の民間宗教団体としての位置づけに対抗し、皇室と神社神道の一体性を回復しようとする政治的意思にのっとったものである。葦津の序「「国家神道」とは何だったのか」の発行にいたる事情」によって見ていこう。

この神道指令は、不法にして不当なものだったし、神道的日本人の側からは、はやくから反論や批判も出たが、一つの大きな欠陥があった。その反論は、絶対無条件権力を確保する占領軍の現実具体的な行政にたいする当面の事例を是正する目的をもった断片的な理論のみが多くて、かれらの称する「国家神道」なるものの全実像についての体系的反論解明が、十分に展開されたとは云いがたい。(新版、八ページ)

「「国家神道」なるものの全実像についての体系的反論解明」という目標が立てられた。そこで、戦後、学術的に国家神道として位置づけられてきたものを誤りだとし、それとは異なるものとして捉える。そのことによって、日本国憲法における政教分離規定の基盤を掘り崩し、神道指令のもたらしたものを少しでも元へ(戦前の体制に近いものへ)戻していくことも目指されている。

葦津の概念戦略と神社神道史像

この路線は、一九八〇年代を通じて周到に準備され、平成に入って一九九〇年代以降、次々と神道史学の領域で学術的な成果を生み出していく。阪本是丸『国家神道形成過程の研究』(岩波書店、一九九四年)、新田均『近代政教関係の基礎的研究』(大明堂、一九九七年)が平成初期に葦津の路線による歴史像を具体化し、平成中期の、菅浩二『日本統治下の海外神社』(弘文堂、二〇〇四年)、阪本是丸『近代の神社神道』(弘文堂、二〇〇五年)、阪本是丸編『国家神道再考――祭政一致国家の形成と展開』(弘文堂、二〇〇六年)、阪本是丸『近世・近代神道論考』(弘文堂、二〇〇七年)などがこれを裏づけていく。阪本や新田の研究はいずれも資料に即して問題解明を試みたすぐれた業績である。

『国家神道とは何だったのか』で葦津が提起しようとしたのは、(1)国家神道が悪をもたらしたという歴史像を批判し、国家神道はそれほどの地位をもたず、それほどの力もなかったとすることである。つまりは、国家神道の歴史像である。だが、そのために、葦津は戦略的に、(2)「国家神道」の定義の問題を用いている。まず、1)についてだが、以下のように述べている。

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