4月19日、文科省は「福島県内の学校等の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について」http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/23/04/1305174_1538.htmlという文書を出した。これは福島県の子供が1年あたり20mSv(ミリシーベルト)までなら被ばくするのを許容でき、その範囲で学校等の生活を維持できるとするものだ。これを1時間あたりに直すと3.8μSv(マイクロシーベルト)となる。これによるといくつかの学校等では屋外活動ができなくなる。たとえば、4月18日の福島市立大波小学校では(http://atmc.jp/school/)、1cmの高さで6.1μSv、1mの高さで4.8μSvだから、屋外活動は大幅に制限されることになる。
それ以外の学校等では、いちおう屋外活動もしていいことになっている。だが、将来の健康被害の可能性を避けるためには、被ばく量のチェックを続けるべきこと、校庭・園庭等の屋外での活動を場合によって制限するべきこと、屋外での活動後には手や顔を洗いうがいをすべきこと、土や砂が口に入らないようにし入ったときにはよくうがいをすべきこと、登校・登園時には靴の泥をできるだけ落とすべきこと、土ぼこりや砂ぼこりが多いときには窓を閉めるべきこと、が指示されている。かつての20-30キロ圏の「屋内退避」ほどではないが、子供たちはかなり厳しい生活上の制限を守らなくてはならないことになる。
この20mSvというのは、国際放射線防護委員会(ICRP)の規定を受けたものとされている。ICRPは2007年に一般の人が年間に浴びてもいい放射線量を平常時は1mSvとし、緊急事故後の復旧時には1~20mSvとしている。これに従ったものだ。だが、これは大人の規準数値なので、原子力安全委員会では子供の場合は半分に下げるべきではないかとの意見があった。どうもそれは退けられたようだがその理由は示されていない。
また、緊急事故後の復旧時というが、実際は今度の福島原発事故の場合、それ以前の緊急時が長期にわたって続いていて、これから復旧に向かう手順も見えていない段階である。ICRPの規準では長期的には1mSvまで下げるという目標があるが、それがどれほど先のことかも分からない段階である。チェルノブイリ事故の際、ソ連政府は5mSv をもって「移住義務」とした。これは長期にわたってその量の放射線を浴び続けることを避けるようにしたからだ。今回の「暫定的考え方」は「平成23年4月以降、夏季休業終了(おおむね8月下旬)までの期間を対象とした暫定的なもの」とされているが、この線量が長期化するようだと学校生活の規準をさらに厳しくしなくてはならないことも予測されるところである。
これらのことを知った上で、住民は子供とともに現在地にとどまるか、子供の避難や疎開の可能性について考えざるをえなくなっている。避難や疎開による生活は容易なことではない。だからそれを選べる人は少ないかもしれない。だが、「移住義務」と一時的な自主避難・疎開の間にはさまざまな可能性がある。行政側としてもさまざまな支援の手立てを考えうるはずだ。ここは「残留義務」ではないことを明確にした上で、住民の健康被害への懸念を配慮したさまざまな方策を考えるべきときではないだろうか。
しかし、これに対して原子力安全委員会の討議をもとにした文科省の発表やそれを受けたメジャーなメディアの報道は、こうした問題について一切触れないものが多い。たとえば朝日新聞は4月20日の朝刊でこの文書を報道する際、唯一、福島県放射線健康リスク管理アドバイザーの山下俊一・長崎大教授の「人体への影響はほとんどない」というコメントを載せている。山下教授のこれまでの発言への疑問は私のブログに記しているが、一貫して健康被害の可能性を小さく見積もる発言を繰り返してきている(http://shimazono.spinavi.net/wp/)。
これに対して、この文書が住民にとって問題含みであることを見越した報道もある。産経新聞は速報(msn産経ニュース)で「文科省「学業継続も考慮した」 福島の学校の屋外活動制限」という見出しで、「子供の基準として適切か」「決定の根拠を説明すべきだ」などの質問に対して回答に窮する場面が相次ぎ、未明の再会見となった」としている。http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110420/dst11042001470003-n1.htm産経はまた、文科省は「安全と学業継続という社会的便益の両立を考えて判断した」と説明したとも述べている。
これは重要な報道である。「安全」と「学業継続という社会的便益」を「両立」させるにはさまざまな方策が考えられるだろう。なぜ、20mSvという規準を設定することが「両立」の方途として適切なのか、しっかりとした説明を聞きたいところである。というのは、文科省の説明では「安全」をある程度犠牲にして「社会的便益」を保持しようとしたというように聞こえるからである。実際、他に両立の方途はないのだろうか。学校をしばらく休みにして、校庭・園庭の放射性物質の除去を行うことはできないのか。三宅島の生徒がそうしたような集団疎開の可能性はないのか、等々。
だが、これらの点について、政府やメジャーなメディア(NHK,朝日新聞、読売新聞など)はほとんど触れようとしない。これは住民に安心を与えるものだろうか。情報を開示しないことによって、かえって住民の不安を増幅してはいないだろうか。福島原発事故が始まって以来続いている事故による危険の過小評価、危険についての情報開示の少なさがなおい続いている。情報不開示故にたとえば30キロ圏内の地域住民の怒りをよんだことが報道されたのはつい数日前のことだ。だが、なお情報不開示、危険の過小評価が続いている。まずは政府がそうしているだが、それとともにメジャーなメディアがこれに協力し続けている。
これについて、すでに3月31日に香港の『明報』に興味深い文章が掲載された。中国人政治学者の林泉忠氏による「放射能恐慌とメディアの責任」と題された評論で、その日本語訳もインターネット上で見ることができるhttp://www.aisf.or.jp/sgra/。そこでは、日本人の冷静さとそれを導いたメディアの対応を称賛している。そしてSARSの時の香港を振返り、「WHOのデータによれば、 SARS(2002-3年)が直接に病気を引き起こし命を脅かす度合いはせいぜい毎年世界で発生している多くの伝染病の一つ程度にすぎない。人為的なパニックによってもたら された多大な経済損失は想像以上のものであった」と述べている。
林泉忠氏は日本メディアが健康被害についての情報を適切に示すことと国民に不安を抱かせないこととの双方を実現してきたとするが、それは事実に即しているだろうか。日本のメディアが情報を的確に提示しているというのは過大評価ではないだろうか。メディアが当局の情報不開示を批判したとはするが、その程度が問題だ。とくに健康被害について「安全」を繰り返す不透明な説明はかえって不安を増幅したのではなかったか。
林氏の論評でもう一つ注目すべきところは、経済損失と健康被害を秤にかけて経済的利益をとってその観点から健康被害を小さく報道することを是認する考え方である。これに近い考え方は、日本の報道機関や政府にもあるかもしれない。もしそうだとしたらそれを率直に受け入れるわけにはいかない。どういう天秤のかけ方なのか明示すべきだろう。しかし、ここで共同生活を尊ぶという考え方が垣間見えることは無視できない。地方自治体やその学術アドバイザー、ひいては地域住民自身の考え方にその考え方が含まれており、そちらの方がもっと重要かもしれない。それはあくまで地域の平常の生活を維持することを尊ぶべきだという考え方だ。
これについては、このブログhttp://shimazono.spinavi.net/wp/の「放射能による健康被害についての医学者、政府・自治体およびメディアの対応」という文章で少々示唆しておいた。私たちは共同体や家族が離散し、地域社会が崩れてしまうことの方が個々人の将来の見えない健康被害への恐れよりも重要だという考え方をしばしば耳にしている。福島県の住民の間では、子供の健康のことを心配する若い夫婦らとその他の、できれば地域にとどまっていたい、どちらかといえば高齢の方々の考え方の食い違いが生じており、度々報道されている。
地域社会の保全を尊ぶ考え方と個人・家族の健康・安全を尊ぶ考え方が対立しているとき、どちらを尊ぶべきか、答えはかんたんには出てこない。だが、どのような判断を下すかはあくまで住民自身であるべきだ。そして、その判断のための情報は十分に提供されなくてはならない。そしてとどまろうとする人とともに、移住を選ぶ人への支援もなされるべきである。民間団体もそうだが、政府・自治体もそうあるべきだろう。
政府やメジャーなメディアは地域住民が適切に判断し行動するための情報を十分に提供しているだろうか。否である。そしてそれは、事故当初より「パニックを避ける」「不安をあおらない」などの標語の下、「安全」ばかりを強調してきた姿勢の継続であるように思われる。これは科学技術をめぐる意思決定と報道のあり方にしみついた弁護体質ではなかろうか。そして実はそれによって危険を防ぐ方途がとれなくなるだけでなく、地域住民の不安はかえって増幅し、情報の「後出し」による不信や怒りの原因にもなっているのである。