市川裕・松村一男・渡辺和子編『宗教史とは何か』上巻(宗教史学叢書13)リトン、2008年9月、297-422ページ
以上の論文から一部を以下に掲載します。
(前略)
一、神社を「民族宗教」と見なす
国家神道の語を用いて近代日本宗教史のビジョンを提示し、大きな影響力を及ぼしたのは村上重良である。一九七〇年に刊行された『国家神道』は今もよく読まれているが、執筆時からすでに四〇年近くを経ており、欠点も目立つようになってきている。
事実、厳しい批判も浴びており、批判のなかには肯ける点も少なくない。国家神道の抑圧性を指摘しようとするあまり、価値判断に引きずられて歴史的事実と合わない叙述がそこここに見られる。「宗教」や「神道」の語が輪郭の明確な実体を反映するものであるかのように叙述するナイーブさも、今日では概念批判論ないし言説論的な観点から見直される必要がある。しかし、近代日本の宗教史、神道史を叙述する際、基軸的な用語として国家神道の語を用いていくという村上の方針のおおよそは支持できるというのが筆者の立場である(島薗 二〇〇一a)。
村上の説明のなかで支持できないものの一つは、「民族宗教」という語の用法である。神道の基体は神社神道として存在してきた民族宗教であるとされる。では、民族宗教とは何か。「序説」で村上はかなりの紙数を用いて、民族宗教の語について説明している。それによると宗教を二大別すると民族宗教と創唱宗教に分けられる。民族宗教は地域的な集団の枠を超えられない。これに対して創唱宗教は民族宗教を母体として成立し、地域集団の枠を超えて広がっていく。創唱宗教は体系的なイデオロギーをもち、個人の内面性を支えることができるが、民族宗教はそこまで発達しておらず近代性にそぐわないという。
このような枠組だけでもすでに多くの問題を含んでいる。「民族宗教」の語の用い方がかなり広く、無理に多くのものをそこに押し込んでいるし、その特徴づけも図式的で危うい。宗教進化論的な枠が用いられているが、その道具立てが明快さを欠いている。また、民族宗教が実体的に特定できる輪郭をもつかのように述べていることも誤解を招く。古来、輪郭をもった「民族」が実在し、その民族の輪郭に対応して輪郭ある民族宗教が実在するといった印象を与えるのだ。「民族」(あるいはその原型となるエトノスや言語共同体)が古代において朝廷周辺に成立していたとしても、その輪郭は漠としており、その範囲は国民国家のそれとは比較にならないほど狭いものにすぎなかったはずである。
だが、もっと問題なのは、日本の民族宗教として神社神道を説明しようとする部分だ。村上はあるパターンをもった神社神道が古来、日本社会の基層に一貫して存在し続けたと見なしている。
東アジアの一角を占める日本社会では、民族宗教が外来の創唱宗教に完全に包摂されないまま、民族宗教としての神社神道が独自の宗教として発展した。(中略)/民族宗教は、もともと未発達な生産段階での、共同体的な社会集団による生活と生産のための儀礼中心の宗教であるから、日本の原始社会のような、イネづくりを主体とする農耕社会では、イネの豊饒をもとめる農耕儀礼が、民族宗教の主要な内容を形成した。天皇の宗教的権威も、この農耕儀礼を全国的規模で主宰する機能に発している。(中略)/(「/」は原文改行箇所を示す――島薗)民族宗教の基本的性格をうけついだ神社神道は、仏教、儒教、道教等の外来の宗教と習合する過程で、宗教としての体系的イデオロギーを形成して発展した。しかし、習合による自己展開も、地縁的血縁的な祭祀を営む圧倒的多数の神社の性格を本質的に変化させるにはいたらず、神社神道は、民族宗教の骨格を保持しつづけた。(六―八ページ)
これによると、古代以来、天皇の司る稲作儀礼を典型として、「民族」的な稲作儀礼が広く行われており、それこそ「神社神道」とよんでよいものだということになる。上記の引用の省略した部分で、村上は「日本の民族宗教をかたちづくっているこれらの要素は、もとより日本独特のものではなく、原始農耕社会の宗教に共通する観念と儀礼である」(七ページ)とも述べている。だが、それならそれを「神道」というに足る独自性をもつかのように、「神社神道」とよんでよいのだろうか。沖縄やアイヌの信仰は「神社神道」なのだろうか。
二一世紀の神社神道の担い手として自負している神職や神道学者たちは、神社神道は古代以来、連綿とその伝統を保ってきたと考えている。これは信仰的な立場であるが、史実と合致するかどうか確かではない。現代の神社本庁では、皇室や伊勢神宮で行われるような稲作農耕祭祀こそ神社神道の中核をなすものだという立場をとる。しかし、日本の神祇祭祀、神祇信仰は縄文時代に遡ると見て、水田稲作農耕以前の森林文化こそが源流だと見る見方もあり、有力である。「古神道」は縄文時代に遡るという捉え方だ(梅原 一九八九、一九九一、菅田 一九八八)。一九六〇年代に照葉樹林文化論が起こって以来(上山 一九六八)、そのような立場をとる論者は多い。
これに対して神社神道的な立場では、弥生時代以降の水田稲作農耕にこそ神道の源流があると理解される。これは皇室祭祀の根幹をなす稲作儀礼こそ神道の中核であり、それは弥生時代から古墳時代にかけて皇室が日本の国家を形成する時期に国土に広がり、以後、日本文化の基盤となったとするものだ(安蘇谷 一九九四)。この立場は柳田国男の指導の下に展開した日本民俗学もかなりの程度共有していた。
柳田は家の先祖を神として祀るのが日本の固有信仰だとした(川田 一九九二)。「固有」というのは「外来」に対置されるものである。固有信仰とは、古来日本民族がもっていた信仰で、他と区別されるユニークなものだという意味を含んでいる。その先祖祭祀を中心とする固有信仰は、また、田の神山の神の信仰でもあるという。夏は田に冬は山にいて送り迎えをする。祭りは神=先祖に豊作を祈り、収穫に感謝する意味をもつ。この稲作農耕は、沖縄を経由して「海上の道」から伝わって日本民族文化の原型を作ったのだという。
一九六〇年代頃まではこのような日本文化論が信憑性をもつものと考えられていた。これは確かに稲作経営が中心であった時代、小農が経済生活の基盤となって一定の力をもち、尊ばれもした近世以降、昭和中期までの社会意識を反映している。また、大正・昭和初期まではまだ農業人口が多かったこと、また、農耕民の文化の記憶が強かったことが関わっている。さらに明治中期以後、国民は一体であると意識するナショナリズムが強まり、それが農村を中心とした故郷への愛着と結びついていた同時期の文化状況をも反映しているだろう。
村上重良の国家神道論における神社神道理解はそうした時代の制約をこうむっている。皮肉なことだが、その点では村上重良は、彼をもっとも厳しく批判している神道学者らの神社神道観と同じ「神道=民族宗教」観を共有しているのである。
二、神祇信仰から神道への展開を問う
古代以来、信仰世界を共有する神社神道が全国に広がっていたかどうか、歴史学上の資料調査に基づく丁寧な検討を必要とする。どこまで地域社会の神社レベルで、「神道」とよべるほどの、ある程度自立した、かつ共有の基盤をもった信仰世界が存在したたかが問われるだろう。もし、一定の自立性や共通性がなかったとすれば、それは神道とよぶには値しない。たとえば「神祇信仰」とよべばよいということになる。
一九七〇年代以降の日本史学では、少なくとも平安時代から中世のある時期までは、全国の神社が神道とよべるだけの自立性をもったり、共通の基盤をもつようなことはなかったという見方が有力になってきた。この見方を形成する際に、黒田俊雄が果たした役割は大きい。黒田は平安期に仏教勢力が一つの大きな統合体を築いていったと見て、それを顕密体制と名づけた。南都北嶺を頂点とする仏教勢力は大乗仏教の主要教義を顕教として掲げつつ、呪術儀礼に力点がある密教を有力な構成要素として組み込み、現世と来世の救済を保証しようとした。そうすることで朝廷・貴族層はもちろん、幅広い層の支持を得ることができた。神祇信仰のほとんどは、神仏習合によって顕密仏教のなかに統合されていた。有力な神社は仏僧の管理下にあった。したがって中世後期までは、自立した「神社神道」などとよべるようなものはなかったということになる。
近年、この立場を継承し、神道の成立が黒田説ほどではないにしても、中世への移行期までは下るとする説を提起しているのは、黒田門下の日本史学者、井上寛司である(井上 二〇〇六)。最近刊行された井上の著書の本論冒頭部分に、その意図が明確に述べられている。井上は神道が日本史の始まりの時期、つまりは古代から存在するとする考え方が、新たなナショナリズムによる「新自由主義史観」と結びついて提起されているとして、「科学的歴史学」によって「天皇を中心とした超歴史的な日本歴史の捉え方」を批判する必要があるという。
こうした超歴史的な日本歴史の捉え方を、その根底において支えているのが、「日本歴史上の最大のドグマ」とされる、日本の宗教についての特殊な理解にあることはよく知られているところといってよい。「神道=原始・古代から現代に至るまで連綿として続く、天皇の存在と密接・不可分の関わりを持つ、日本に固有の土着的(民族的)宗教」という理解がそれである。/こうした理解や主張が事実の問題としても、また歴史理論としても多くの問題を抱えていて、とうてい成り立ちえないことについては、すでに黒田俊雄氏が明快に指摘したところである。とくに重要なのは、黒田氏が単なる理論的あるいは方法論的な批判にとどまらず、「神道」論の成立期とされる日本中世の宗教構造の全体像(顕密体制論)を提示し、その中に「神道」を位置づけることを通して、具体的かつ積極的に、歴史の事実に照らして「神道=日本の民族的宗教」説が成り立ちえないことを明らかにしたことにある。(一五―一六ページ)
井上は現代の神道ナショナリズムに傾斜する論者の立論を念頭においてこのように述べるとともに、超歴史的な神道観が力を持ち続ける上で、柳田国男の固有信仰論に大きな責任があるとも論じている。柳田国男は「国家神道」に対して批判的な視点をもっていたが、「固有神道」論を提起することによって、実質的に「神道」「国家神道」の超歴史的理解に与することになってしまったという。
さて、以上に指摘した柳田氏の「神道」=「固有信仰」論が担った歴史的意義という点で最も重要、かつ注目すべきは、そこで提起された「神道」概念(「自然発生的な日本固有の民族的宗教」)が「国家神道」解体後の戦後日本において、あらゆる分野や階層の人々からあたまも疑う余地のまったくない真理であるかのように受け止められ、急速に一個の社会的「通念」として広まり、定着していったことである。(三一二ページ)
にもかかわらず、黒田俊雄氏の重要だが、しかし極めて不十分な問題提起を除いて、この「神道」概念の問題が本格的に検討されることはまったくといってよいほどなされないままに今日に至ってしまった。とくに問題だと考えられるのは、村上氏をはじめとして「国家神道」の科学的な究明を試みようとする研究者自身が安易に柳田氏のこの「神道」概念に依拠するという、大きな自己矛盾を抱えてきたことである。(三一三ページ)
実際には民俗学でも宗教学でも柳田固有信仰論の限界は広く認識され、その克服が目指されて来た。柳田は内務省による神社神道の統制に反対し、国家管理以前の地域の神祇祭祀こそ「民族」「固有」のものであり、だからこそ皇室神道と共通の基盤をもつのだと考え、儒教や仏教の影響を極力排除した神道観を提示した。そこには日本民俗が古代から一貫して「固有信仰」を保持してきたという、ナショナリズムに裏打ちされた強い信念がある。これについては、きわめて多くの批判的論及がなされてきたので(津田 一九六四、桜井 一九八二、川田 一九九二、村井 一九九五、池上 一九九九)、「神道」概念批判が黒田氏の「問題提起を除いて……まったくといってよいほどなされな」かったというのは誇大な表現と言わざるをえない。とはいえ、「神社神道」が古代以来、連綿として続いてきて近代に至ったというのは史実に合致しないという論点の明確化が、黒田の功績に属するというのは妥当な理解だろう。
しかし、では古代に「神道」とよべるような組織化された神祇祭祀がまったくなかったかというと、なお議論の余地がある。律令体制が導入される天武・持統朝の前後、すなわち七世紀の後半から八世紀の初めにかけて、朝廷を中心に神祇祭祀を組織化するとともに記紀神話が編纂され、天照大神の孫(天孫)、ニニギノミコトを祖とする天皇家が神的な権威をもって国を統治するという信仰システムが形つくられたからである(島薗 二〇〇六)。中国の律令の皇帝祭祀に対応するような祭祀を確立しようとして大きな力が注がれ、組織化された神祇祭祀と神話的教説が形成されたのである(上田 一九九六)。
これは畿内を中心に朝廷と関わりが深い神祇を国家的な祭祀システムに組み込もうとするものだったが、その実効性は乏しかった。したがって、この時点で「神社神道」が成立したとは言えないだろう。しかし、天皇や祭祀の職掌をもつ家筋の人々が司る祭祀システムを「皇室神道」「宮廷神道」とは言えるだろう。戦前、すでに宮地直一のような神祇史研究者は、これを「国家神道」ないし「国体神道」とよんでいる(宮地 一九三八、三六ページ)。井上順孝、ネリー・ナウマンなど、この時期に神道の原型が成立したとする論者は多い(ナウマン 一九八九、井上 一九九八)。確かにこの時期に成立した祭祀システムや聖典が、近世以降の神道思想、神道運動、近代の神社神道や国家神道に絶大な影響を及ぼした。
神祇祭祀と神道を区別しようとする一部の(マルクス主義や近代主義の影響を引きずっている)歴史学者の言説は、ある種の体系的教説を備えた集団が「宗教」とよぶに値するとする進歩主義的な前提にのっとり、それ以前のものは「宗教」ではなく、したがってこの場合の神祇祭祀は「神道」とよぶに値しないとする考え方が背景にある。このようなプラクシスを軽んじる教説(ビリーフ)中心的な宗教観は、近代的な「宗教」概念の偏りについて無自覚なものと言わなくてはならない。儀礼(祭祀)に主要な統合のよりどころがあるのが神道の特徴の一つであるとすれば、祭祀がある種の体系性をもったときに神道が成立したと考えるのはごく自然なことである。この点を顧みた上で、なお古代朝廷の神祇祭祀を神道とよぶのは適切ではないとする議論はまだなされていない。
しかし、古代の時点での皇室祭祀を「国家神道」とよぶのは適切だろうか。近代に成立する国家神道は、それ以前の神道のあり方とは異なり、その間に大きな断絶がある。国民の参加を促し、次第に国民が支え強化さえしていくようなものであり、全国家的な規模をもつ信仰体系となっていく。その思想的基盤は近世の国体論のなかで培われていったとしても、国家神道の実践体系は明治維新後に次第に整えられていったと考えなくてはならない。古代朝廷を中心に行われた神祇祭祀のシステム化は、国家神道のひじょうに重要な原型ではあるとしても、それだけで国家神道とよぶべきものではなく、皇室神道、宮廷神道などとよぶのが適切だろう。
三、神社こそ神道の基体と見なす
黒田俊雄や井上寛司が神道の歴史を考える際、古代における皇室神道を「神道」と見なそうとしなかったのはなぜだろうか。彼らは地域社会の神祇信仰こそ「神道」の基体となるものだと考えている。つまりは「神社神道」の由来を考えることにこだわっている。そのため、皇室神道の事実はよく知っていながら、それを「神道」とよぶのが自然だということに思い至らなかったのである。
では、なぜ「神社神道」こそ「神道」の基体だと考えたのだろうか。それは近代の宗教制度や近代主義的な宗教観に影響されたためである。近代における宗教制度は信仰をもった個人が集合して形成する宗教集団(典型的には教会)を宗教の基礎単位とする前提に立っている。その背後には、自由な個人が選びとる信仰を本来的な宗教と見る宗教観がある。個人の集まりである「教会」にあたる個別宗教集団は、個々の宗教施設とその担い手から構成される。明治維新以後、近代法に基づく宗教制度が日本に取り入れられたとき、宗教集団は信徒の共同体としてのキリスト教会(個別教会、およびその集合体としての教団)にあたるものを「宗教」と見なそうとした。それはすでに江戸時代の統治システムのなかに、「宗門」や「社寺」として存在していたので、それほど違和感があることではなかった。
他方、天皇を中心とする国家は尊皇思想、国体思想のもと、「祭政一致」、あるいは「祭政教一致」の体制で運営されていくべきものと考えられていた(島薗 二〇〇一b)。皇室神道の伝統はまさにこの部分に関わっていた。だが、西洋に見習う近代制度のなかでは、それは「宗教」でないものとして規定しなくてはならなかった。このため、垂加神道や国学(復古神道)、水戸学や皇道論においてはきわめて重い意義を与えられていた皇室神道が、「神道」概念の外に置かれる文脈が増大したのである(島薗 二〇〇七a)。
日本の歴史学はこのような近代的な「宗教」概念が含み持つ問題性について、ほとんど取り上げたことがない。山口輝臣が『明治国家と宗教』において宗教学者の宗教論の影響について論じたことがあるが、神道概念、国家神道概念との関係にふれるものではない(山口 一九九九)。宗教学と歴史学の間で神道を論じてきている磯前順一は、「宗教」概念の問題性について主題化しているが、それは神道概念、国家神道概念の検討とうまく連結していない(林淳[ 二〇〇二]もこの点では同様だ)。
磯前は西洋近代の「宗教」概念の特徴を「プラクティス」に対する「ビリーフ」の優越という点から論じている(磯前 二〇〇三、二〇〇七)。だが、西洋近代の「宗教」概念の特徴としては、個人の内面のこととしての「宗教」、それと対応して自発的に信仰する個人が構成する宗教共同体の重視という側面が重要である(アサド 二〇〇四、二〇〇六)。このような「宗教」概念を「神道」概念や「国家神道」概念の及ぼそうとすると混乱が起こる。これこそ神道指令において起こったことであり、歴史学的な近代宗教制度史研究が見落としているところである。これは神道学者側も同様だった。後に述べるように、近代的宗教概念を無批判に受容しているために国家神道が理解不能になるという点では、神道学の研究者側も同様だった。
このことが国家神道をめぐる議論に及ぼした影響は計り知れないものがある。国家神道は皇室神道が関わる事柄であり、国民各層が学校や公的行事等を通して関与していく要素がきわめて大きかった。しかし、多くの論者は、国家神道とは神社神道が国家と特別の関係をもって国家の支えを得、統治機能に参与すると同時に一定の規制を受けたものを指すと考えた。新田均が狭義の「国家神道」概念として整理した立場である(新田 一九九九)。そこでは、論者は神社こそが国家神道、ひいては神道の基体だという見方に固執している。神々の子孫として神聖な存在である天皇が国民の崇敬を受け、国を統治するという国家神道の根幹を「宗教」の事柄ではなく、「天皇制イデオロギー」の事柄だとして排除するのである。
このように神社神道に焦点をあてて国家神道を考えようとする傾向は、「国家神道の解体」を命じたいわゆる「神道指令」(「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」)に発している(島薗 二〇〇一a)。そこでは、「本指令ノ中ニテ意味スル国家神道ナル用語ハ日本政府ノ法令ニ拠ツテ宗派神道或ハ教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派即チ国家神道ナイシ神社神道トシテ一般ニシラレタル非宗教的ナル国家祭祀トシテ類別セラレタル神道ノ一派(国家神道或ハ神社神道)ヲ指スモノデアル」と定義されている。これは内心において信仰した個々人が自発的に作る集団こそ宗教の社会的基礎単位であるというキリスト教的、とりわけアメリカ合衆国的な宗教概念にのっとっている。しかし、日本の民俗宗教の神々が人々にどのように信仰されてきたかという宗教史の基礎的事実は配慮していない。
村上重良はGHQが採用した狭義の「国家神道」定義には同意しなかった。神社神道だけではなく、皇室神道や国体論を重要な構成要素と考え、講義の国家神道定義を採用している村上だが、度々、神社神道こそが国家神道の本体であるかのような論述を行っている。
国家神道は、民族宗教としての神社神道を、二〇世紀なかばにいたるまで固定化した、時代錯誤の国教制度であった。(村上 一九七〇、iiページ)
歴史学者が宗教集団こそ「宗教」の実体であるという宗教理解に流れやすかったのは、近代主義的な宗教観によるとともに、科学主義の実証主義的な思考様式が災いしている。資料に現れてこない概念を構成する理論化の仕事を忌避するのだ。これは神道学者が国学的な実証主義の思考様式にとらわれて、漢意からごころ的な理論化を忌避するのと対応した現象だ。さまざまな資料の相互関係を見定めながら、概念と理論を構成していくことは人文社会系の学問の基本的な作業手順であり、そこでこそ学問的な創造性が発揮される。だが素朴実証主義は、そのような概念構成の意義を無視するのだ。
近代史の基礎資料であるところの行政文書等を見れば、法制度上の用語が頻出するのは当然である。近代的法制度においては、宗教を個人が構成する宗教集団として捉えるのであるから、法制度上の資料にのっとって実証主義的に考察していけば、当然のことながら神社神道=国家神道という狭義の概念に引きずられる。だが、神道的な思考や実践が人近代日本に生きる人々の共同生活のなかに、どのような位置をもって凝集してくかを洞察し、日常用語を活用しながら概念化し、全体的な連関のなかに理論的に位置づけていかなくてはならない。国家神道はそのような大きな見通しにつながる概念である。
そもそも宗教とは人間の思考と実践に関する事柄であり、法制度に規定されたものだけが宗教なのではない。近代制度の言語を超えたところに宗教の特徴があり、それを探るところに宗教研究の醍醐味もある。法制度からのアプローチはたいへん重要であるが、それを超えた次元を排除してしまってはならない。
四、国家神道を宗教集団と見なす
このような問題点があることは、歴史学者よりも神道学者・神道史学者の方が早く気がついていた。その上で、神社神道こそ国家神道であるというGHQの定義を自覚的に用いて、村上重良の国家神道論を論駁しようとしたのが、弁護士であり、法制史研究に通じていた葦津珍彦である(葦津 一九八七、島薗 二〇〇一a)。その背後には、神社界が戦前の国家神道に帰せられる悪を背負わされ、冷遇されることへの反発があった。神社神道即国家神道とすることによって国家神道の語の指す対象の範囲を狭め、国家神道の危険性が誇張されるのを避けたいというモチベーションである。
その葦津珍彦の国家神道論をほぼそのまま受け継ぎ、狭義の国家神道概念に依拠し、広義の国家神道概念を批判してきたのは新田均である。葦津に直接学んだ阪本是丸の国家神道論は、狭義と広義の中間のような位置にあり、やや複雑である(島薗 二〇〇七b)。新田均は狭義の国家神道概念を強く打ち出し、広義の国家神道概念をよしとする筆者の論考に立ち入った批判を行ってきている(新田 二〇〇二、二〇〇三b、二〇〇五)。ここでは、新田の批判への応答も含めつつ、筆者から見た新田の神道観、国家神道観の問題点を示していきたい。
新田が国家神道について考察する際の基礎的な枠組は「政教関係」という概念によって示されている。そして国家神道についてこれまで論じられて来た諸問題は、欧米諸国で広く見られる公認教制度の一形態として見れば解決するという立場をとっている。複数の宗教を公認するが、そのなかで優遇の度合いには違いがあることもある。日本の場合、神社神道はいくらか優遇されたとも言えるが、「宗教ではない」とされたため冷遇されたという面もある、ということになる。
『近代政教関係の基礎的研究』ではその冒頭で、「「国家神道」は、近代日本の政教関係を論じる場合にしばしば登場する用語である」(一ページ)と述べられている。「政教関係」という言葉は、「政治」と「宗教」が分離しており、その両者がどう関わっていたかを問うという姿勢を前提としている。その場合、宗教が政治にどう働きかけたかも問題にはなるが、より重要な問題は国家が宗教をどう遇して来たかという問題だと理解されている。
新田によれば、従来、「神道」だけが国家に優遇されて権力側に立っていると理解され、それが「国家神道」とよばれた。他方、仏教やキリスト教や新宗教は国家神道に抑圧され、抵抗したり妥協したりするものと見なされてきた。「従来の「国家神道」論の枠組において、宗教政策に対する仏教の位置付けは、被抑圧者、抵抗者、不本意な協力者といったものであったように思われる。」(一ページ)しかし、実際には仏教の方が政府を動かす政治力をもっており、仏教側の方が宗教政策の決定に大きな影響力を行使した。また、天皇の絶対性を強調したのは神社神道関係者ばかりではない。むしろ、仏教、キリスト教も含めてさまざまな思想的宗教的立場の人たちが天皇絶対化を鼓吹したのだ。
その意味では、一九三〇年代以降のごく短い時期を除けば、神道が国家権力によって諸宗教に強制されたということはない。教育勅語制定後の政府は諸宗教への寛容を旨としていた。これは教育勅語の制定に深く関与した井上毅が重視した方針である。たとえば教育勅語については、仏教やキリスト教の立場からの解説書が刊行されていた。「このように多彩な解説が公刊されている事実を見ると、当時の政府の腹の内は「民間においては、尊皇という線を守っておれば、その根拠づけ、納得の仕方については、基本的に自由な解釈を許す」といったところではなかったかと思われる。」(新田 二〇〇三a、四七ページ)
新田は天皇を「現人神」とするような絶対神的天皇論が国民に強制されたのは、一九三〇年代以降にとどまると論じる。そこでは確かに国家神道が国民に強制されたが、それ以前の段階では、「天皇を中心とした~の国」ということで、さまざまな宗教が自らの立場を守ることを認めていた。「明治中期から大正期にかけての日本政府は、公教育においては天皇「神孫」論と君臣「徳義」論とを柱とするが、社会一般においては「天皇を中心とした国」という枠組みさえ尊重しておれば、「~の」の部分については、神でなくとも、仏でも、基でも、儒でも、立憲政体でも、もちろん家族国家でも、基本的にはかまわないという態度だった。」(新田 二〇〇三a、五四ページ)
筆者の理解では、そのように包容性をもち、どのような立場の人も国体論に基づく天皇崇敬に参与し、祭政教一致の国家を尊ばなくてはならないとするのが明治維新で打ち出された国家秩序理念の基本であり、それこそ国家神道とよばれるべきものだ。幕末期にはこれは「皇道」とよばれており、その時点で皇道は包容的なものと理解されていた(島薗 二〇〇七a)。仏教やキリスト教の人々は、仏教徒、キリスト教徒でありつつも、この意味での国家神道に参与することを強いられたのである。だが、新田はこれは「宗教」とは見なさないという立場をとる。
第一部で確認したように、「現人神」「八紘一宇」というイデオロギーが明治以来一貫して存在していたわけではない。ならば、そのイデオロギー注入装置としての「国家神道」も一貫して存在したはずがない。〃いやいや、「尊皇」というイデオロギーは一貫して存在していたではないか〃と反論する人もいるかもしれないが、これまたすでに述べたように、「尊皇」=「現人神」「八紘一宇」だったわけではなく、「尊皇」には多様なバリエーションがあった。/そもそも、「尊皇」は近代日本の国家原理であって、あらゆる国家機構がこの原理の下に組織されていたのであるから、これをイデオロギーというなら、国家そのものがイデオロギー装置ということになり、国家内の特定の部分を指してイデオロギー装置ということ自体が無意味である。(新田 二〇〇三a、一二三ページ)
ここでの問題点は二つある。まず、新田が「イデオロギー装置」というとき、神社神道が念頭に置かれている。神道というととにかく神社が念頭に置かれるのだ。新田は「尊皇」には神社だけが関与していたわけではないとする。だからそれは「国家神道」とはよべないという論旨である。しかし、そもそも神道は神社だけが主要な担い手であったわけではないという前提に立つ必要がある。国家神道においては、神社はその一翼を担ったが神社だけがすべてではない。皇室神道がたいへん大きな役割を果たしたのだ。また、国家のさまざまな機関、たとえば学校教育、公的イベント、軍隊等を通して神孫である天皇への崇敬を促す体制が整えられていった。それを神道の表れと捉えないのはなぜか。「尊皇」は「宗教」以上のものだからだろうか。
もう一つの問題点は、「現人神」「八紘一宇」こそが「国家神道」のイデオロギーであると見なされていることだ。「現人神」「八紘一宇」が公式イデオロギーとなったのは確かに一九三〇年代かもしれない。だが、先にも引いた箇所で示されているように、その前の段階で、「天皇「神孫」論」と「君臣「徳義」論」が公式の教えとして鼓吹されていたことは、新田が認めるとおりである。「天皇「神孫」論」と「君臣「徳義」論」の例として、新田は次のような例をあげている(新田 二〇〇三a、二三-四ページ)。
天照大神は、おんまごニニギノミコトに、三種の神器をおさづけになつて、「この日本国をおさめよ。」と、おほせられました。ニニギノミコトのごしそんの神武天皇は、云々。(尋常小学修身書・第四学年児童用〈明治三十六年〉一頁)
かくの如くにして我が国は漸次に国威を海外に宣揚し、遂に世界の列強と肩を比するの地位に達せり。是もとより我が天皇陛下の御聖徳と、国民が身を忘れて義勇公に奉じたるとによると雖も、亦我か万世一系の天皇代々仁慈にましまして、常に御心を国利民福の増進に用ひ給ひ、国民亦世世心を一にして忠君愛国の精神を発揮したる結果に外ならず。(尋常小学日本歴史巻二〈明治四十三年〉九七-九八頁)
このような「イデオロギー」は神道伝統の重要な一部であり、これこそ国家神道の典型的な表れと見るべきものである。これらの観念が宗教的でないとするにはアクロバティックな論理が必要になろう。また、神社でないところに神道信仰の鼓吹の場があったことを否定するのも、たいへんおかしなことである。
村上重良の国家神道論においては、「現人神」「八紘一宇」鼓吹に至った段階の国家神道の抑圧的な性格が強調されすぎているのは確かである。だが、村上といえどもそれだけが国家神道と論じてはいない。新田の批判は、確かに村上が国家神道の抑圧的な側面を強調し過ぎている部分を的確に指摘しており、筆者も同意できる点がある(島薗 二〇〇六b)。だが、それによって広義の国家神道概念そのものの無効性を示したことにはならない。
五、システム化された制度や思想から宗教を捉える
新田の国家神道論を宗教史理解という観点から捉えたとき、今ひとつ大きな問題がある。それは、新田がもっぱら行政文書や法学者、政治学者、哲学者、宗教学者、イデオローグ等の著書に依拠して議論を進めており、なかなか人々の日常生活のレベルに論が及ばないということである。前節で明治末期の尋常小学校の教科書を引用したが、これはふつうの人々の日常生活に国家神道的な観念がどの程度浸透していたかを推し量る格好の資料である。この時期の人々の宗教意識を知るには、学校行事やマス・イベントについて調べてみるのが有益である(島薗 二〇〇八)。だが、新田の議論はそちらの方向には進んでいかない。
そもそも宗教史の叙述は、人々の生活レベルで宗教がどのような形をとっているかをつねに念頭においてなされるべきである。もちろんそれは容易なことではない。人々の日常生活は記録に残りにくく、その実像を捉えるのが容易でないからである。とはいえ、関連する資料は見出されないわけではない。これは従来の政治史中心の歴史学に対して、民俗学や社会史(アナール派など)が唱え、実践してきたことだった。歴史研究に文化人類学の成果が用いられる機会が増してきて、歴史学と文化人類学や民俗学との区別が薄らいで来たのは、こうした状況を反映している。
宗教史はまさにこうした研究動向に棹さすべきものである。宗教は多くの場合、人々の日常生活のレベルに基底をもつものだからであり、人々の日常生活を知ろうと思えば、宗教的な観念や実践に踏み込まなくてはならないからだ。日本では柳田国男以来、民俗学が隆盛となった。しかし、日本民俗学は同時代の国家神道に切り込むという点では成果が少なかった。国家神道研究に関わるような領域で、日常生活次元の観念や実践が問われるようになったのは、カルチュラル・スタディーズやサバルタン・スタディーズなどの影響が日本にも及ぶようになった近年のことかもしれない。
新田の議論が人々の日常生活に向かわなかったのは、新田だけの弱点ではなく、「国家と宗教」をめぐる歴史学や政治学の研究状況が関わっている。近代史全般にわたって政治史と文化史が切り離され、政治史における思想研究が行政文書やイデオローグの著作に現れるものに限定されがちだった。こうした研究手法と研究関心の偏りのために、「天皇制イデオロギー」については多くの著作が刊行されてきたものの「国家神道」については成果が乏しいという結果が生じた。昭和維新の思想を考察する際、明治期以来の宗教運動の歴史が参照されることが少なかったのはそのよい例である(島薗 二〇〇二)。
このことは、国家神道の担い手を誰と見るかという問題と深く関わっている。新田均は国家が国民に信仰を強制したわけではないこと、したがって神社神道としての国家神道が精神的抑圧的にさほど加担したわけではないことを強調している。これは村上重良が「国家神道対民衆宗教」という図式を頻繁に用いるなどして、国家神道が厳しい宗教弾圧を加えて信教の自由を抑圧したことを強調してきたのに対する反論の意味をもっている。確かに村上は国家神道の抑圧性を強調しすぎており(島薗 二〇〇六b)、その点では新田の議論には肯けるところがある。
しかし、村上と新田の双方に共通に言えることは、国家神道は次第に国民各層の間に浸透し、国民各層が国家神道を強化する役割を果たしたことである。この点では、葦津珍彦が次のように述べているのが参考になる。葦津は神社神道が国家神道という形で制度化されていく過程で、その宗教的機能が低下せざるをえなかったことを嘆いている。だが、国家機関化した神社以外に重要なプレイヤーがいるというのだ。
しかし国家の政府権力とは別に、それとはまったく相異なる神道の意識が、在野の国民の間に生きつづけて行く。それが大正時代になって燃え上がる。政府の国家神道は、初めはこれを無視し、やがて弾圧を試みたが、権力への反抗は根強い。国家神道の中枢、神社局は存外に、消極防衛につとめたが、在野神道諸潮流の反抗は、後には政府権力をおびやかして、心理的圧迫を感じさせる(いはゆる昭和初期からの維新動乱時代)。(葦津 一九八七、九ページ)
帝国政府の「国家神道」そのものが変わったのではなくして、当初の帝国政府をもって亡国的であると断定して、反政府の維新運動を展開した右翼の「在野神道」の擡頭の圧力があった。この在野の神道が、いかに帝国政府の体制権力に反抗し、政府によって弾圧されながらも、逆に、帝国政府は精神的圧力として社会影響力を示して行ったか――この複雑な思想史の解明なくしては「国家神道とは何だったか」は分らない。(一八六ページ)
筆者の国家神道概念に従えば、ここでいう「在野神道」は国家神道の宗教運動の重要な担い手である。黒龍会、大本教、今泉定助らの名前があげられている。筆者自身の研究によれば、大本教の場合、当初は国家神道に縁が薄かったが、明治末から大正初期にかけて出口王仁三郎が皇典講究所京都支所で学び、皇道主義、つまりは国家神道に近づいていく。昭和維新に共鳴してファシズムを加速させる役割を果たした若者たちの中には、大本教の影響を受けた者も含まれていた。
(以下略)
参考文献
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