国連科学委員会の報告書の遅延
2013年10月に国連科学委員会(UNSCEAR)が国連総会に提出するはずだった福島原発災害による被曝量の推計と健康影響の評価についての報告書が、アウトラインだけのいわば暫定版に留まり、詳しいデータについては2014年1月まで延期になった。その主な理由は被曝推計について異論が多かったことによる。ウィーンで5月に行われた国連科学委員会のすぐ後にベルギーの委員から批判がなされた他、国際的にも多くの批判がなされてきている。(http://togetter.com/li/557946 、http://togetter.com/li/583086 、参照)
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甲状腺の初期被曝線量をどのように(なぜ)調べ(なかっ)たか?――災害時の科学者・研究者の責任・続(1)――
災害時の科学者・研究者の責任――「放射線の健康への影響と防護分科会」は医療・学術倫理にそう行動をとったか?――
日本学術会議は東日本大震災後、放射線健康影響問題について早い段階で「放射線の健康への影響と防護分科会」を立ち上げた。この分科会の「設置目的」は次のように記されている。
平成23 年3 月11 日に発生した東北地方太平洋沖地震及びそれに起因する津波により東京電力福島第一原子力発電所は甚大な損傷を受けた。その結果、同発電所から放射性物質の流出という事象が発生し、周辺住民への避難指示等が出されるとともに、農産物、浄水場の水、海水等から同発電所を発生源とみられる放射性物質が検出されている。
国民は、政府等による発表、マスメディアによる報道、Web等からの大量の情報をどのように理解し、行動したらいいのか戸惑っており、また、我が国にはリスクコミュニケーションがあまり根付いていないため、健康や生活に対して大きな不安を抱いている。
このため、日本学術会議が、正確かつ役に立つ情報を国民に向けて発信することにより、国民が正しい知識に基づく行動を起こすことを支援するとともに、国民から健康や生活への不安を取り除くことを、この分科会の設置目的とする。
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子ども被災者支援法についての日本医師会提言
シンポジウム 科学者はフクシマから何を学ぶのか? ―科学と社会の関係の見直し―
主催:日本学術会議第1部・福島原発災害後の科学と社会のあり方を問う分科会
日時:2013年1月12日、13時~18時
場所:日本学術会議会議室
パネリスト
小林傳司氏(大阪大学 コミュニケーションデザイン・センター教授)
「もっと前から学んでおくべきだったこと」
吉川泰弘氏(千葉科学大学危機管理学部、副学長・教授)
「科学と社会:BSEリスク評価から学んだこと」
廣渡清吾氏(専修大学法学部教授)
「科学者コミュニティーと科学者の責任」
城山英明氏(東京大学法学部・公共政策大学院教授)
「原子力安全規制ガバナンスの課題」
コメンテータ
杉田敦氏 (法政大学法学部政治学科教授)
鬼頭秀一氏(東京大学大学院新領域創成科学研究科・教授)
司会
島薗進氏(東京大学文学部・大学院人文社会系研究科教授)
後藤弘子氏(千葉大学法学部・大学院教授)
開催主旨
福島第1原子力発電所の事故により、科学と社会の関わりのあり方が根柢から問い直されることとなった。政府や産業界の望む原発推進に沿った見方を提示する科学者が重用され、安全性を過大評価してきた過去が露わになった。科学の中立性が疑われ、科学者の信用が失墜した。政府や自治体が設ける審議会や委員会において、偏った委員が選ばれていたり討議の内容が隠されていたりする事態も深い失望を招いた。科学者が適切な専門知識を提供して、政府や社会の判断に資する必要が高まっているにも拘わらず、それがうまく行っていない。原子力や放射能だけではない。広く公害問題やリスク評価等においてどうだったか。歴史的な展望をも含めて、科学と社会の関係について問題点を捉え返す必要がある。このシンポジウムでは、多様な学術分野の壁、専門家と非専門家の壁を超え、これらの問題をともに考え討議したい。
チェルノブイリ事故後の旧ソ連医学者と日本の医学者 ――イリーンと重松の連携が3.11後の放射線対策にもたらしたもの―― (4)イリーンに協力した重松逸造の系譜の医学者
事故直後から子供は疎開しなくてよいと主張し、その後、生涯最大被曝線量350mSv、しかもそれ以上の線量でも必ずしも移住しなくてよいと主張したイリーンの立場は、ウクライナやベラルーシではなかなか受け入れられなかった。そこで、イリーンは国連放射線影響委員会(UNSCEAR)等を頼り、国際組織やそこに集う外国の科学者の力を借りて自説を支えようとした。
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チェルノブイリ事故後の旧ソ連医学者と日本の医学者 ――イリーンと重松の連携が3.11後の放射線対策にもたらしたもの―― (3)しきい値あり論者イリーンの350mSv基準の主張
イリーン『チェルノブイリ:虚偽と真実』の第4部では、イリーンが提唱した「生涯最大被曝線量350mSv」基準をめぐる論争や政治的かけひきの経緯について述べられている。それは主に1988年から89年にかけてのことだ。ところで、七沢潔『原発事故を問う』(岩波新書)の第4章にもチェルノブイリ周辺の89年の状況について叙述があり、そこでもイリーンが登場する。甲状腺がんが出始めたこの段階でもソ連はなおできるだけ避難をさせない、補償をしない立場に固執していた。その様子が描かれている。
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チェルノブイリ事故後の旧ソ連医学者と日本の医学者 ――イリーンと重松の連携が3.11後の放射線対策にもたらしたもの―― (2)チェルノブイリ事故以前の状況と直後の対応
イリーン『チェルノブイリ:虚偽と真実』の第1部は「チェルノブイリ事故直前のソビエトにおける放射線医学の科学的レベルとその状況」と題されている。ここでは、イリーンがこの分野の権威者として大きな力をもつ立場に至る過程が述べられるとともに、その立場でチェルノブイリ事故後の事態に対応する際、どんな困難を抱えていたかの説明がなされている。一方でソビエト連邦のこの分野の科学は高い水準にあったという主張と、しかし、チェルノブイリに十分対応できないような多くの限界があったという弁明が述べられており、その意味で分かりやすい叙述とはいいがたい。 続きを読む
チェルノブイリ事故後の旧ソ連医学者と日本の医学者 ――イリーンと重松の連携が3.11後の放射線対策にもたらしたもの―― (1)レオニード・イリーン、重松逸造、山下俊一
中川保雄『放射線被曝の歴史』(1991年、増補版、2011年)は放射線健康影響についてのICRPなど国際機関の「科学的」見解が、どのような政治的背景を反映して変遷してきたかを示した名著である。だが、この書物が対象としているのは1990年頃までであり、チェルノブイリ事故をめぐる事態の展開が、その後の放射線健康影響・防護の動向にどのように関わっているかについては述べられていない。
では、チェルノブイリ事故をめぐる放射線健康影響・防護の展開について、またそれが3.11後の放射線対策に及ぼした影響についてはどのようにして知ることができるだろうか。中川が行ったような本格的な調査研究はとてもまねができないが、それでも大いに参考になる手頃な書物がいくつかある。 続きを読む
放射線のリスク・コミュニケーションと合意形成はなぜうまくいかないのか?(8) ――山下俊一氏はリスコミをどう理解してきたのか?
長瀧氏の指導の下、その「手足となって」働いた(下記資料 での本人の弁)山下俊一氏は、とにかく住民を「安心させる」ことを至上命題としてチェルノブイリでの検査・調査にあたった。「すぐに感謝されたのはセシウ ム137をホールボディカウンターで測定して、その体内被曝を心配しないでよいと子どもたちや親たちに知らせてからです」。笹川チェルノブイリ医療協力事業を振り返る座談会(2004年12月)http://t.co/vAtjH8gn で山下氏はこう発言している(p17-18)。「そこではじめて現場は安心するのです。それしか現場ではすぐに結果が出ないのです。ですから、まずは心配要らないと伝えられることがまず第1ですね」(p18)。「結果が出ない」というがどういう結果なのか。 続きを読む
放射線のリスク・コミュニケーションと合意形成はなぜうまくいかないのか?(7) ――「不安をなくす」ために調べない知らせないという「医療倫理」?
だが、重松委員長によるIAEAレポート(1991年)が出たこの時まで、長瀧氏はチェルノブイリでどれほどの診療経験、調査経験があったのだろうか。最初にチェルノブイリに赴いてから、どれほどの時間も経っていない。その間に現地に滞在した時間はほんのわずかである。したがって、調べる前知る前に「健康影響なし」の立場は決断されていた。そうとすれば、長瀧氏の著書『原子力災害に学ぶ―放射線の健康影響とその対策』に見える以下の反応は何の不思議もない。
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