福島原発事故について、私が健康被害の問題に関心をもつ理由の一つは、私の父が1945年に広島で被爆した可能性があることによっている。1920年生まれの父は、当時、精神医学を学んでおり、命令を受けて原爆投下直後の広島に入り数週間、犠牲者の脳の収集にあたった。最近、父がその後に書いた報告書が占領軍の資料のリストの中には見えるが、現物は発見されていないことを知った。
死の影に塞がれた心に新たな光を ――疎開と世代間連帯――
ベネチアについて9日で東北関東大震災が起こった。アパート住まいでテレビは日本の放送が入らない。最初は情報が得られず焦ったが、インターネットでNHKのテレビ放送が常時、見られるようになって、ある程度分かるようになった。海外にいて、自国のこのような未曾有の困難を遠くから見ているといても立ってもいられないような気持ちになる。
『国家神道と日本人』の革新的な知見の整理
拙著『国家神道と日本人』(岩波書店、2010年7月)については、分かりやすい本だったという感想を多くちょうだいしましたが、他方で著者の意図がよく分からないといった類の感想にもしばしば出会いました。
これはこの書物が政治的な主張に主眼を置いたものではなく、数十年単位の長期的なスパンで通用する宗教史理解を示そうとしたため、また新書という形態の都合上、現在通用している理解に対してどこに革新性があるかを分かりやすく提示しなかったことによると思われます。
来年中に刊行を目指している国家神道研究の研究書においては、そのあたりをもっと明確に示すつもりですが、ここでこの本の革新性の概略についてまとめておきたいと思います。参考にしていただければ幸いです.
宗教教育という論題
2010年11月28日、日本学術会議哲学委員会・日本哲学系諸学会連合・日本宗教研究諸学会連合の主催によるシンポジウム、「哲学・倫理・宗教教育はなぜ必要か」が行われた。(http://www.jbf.ne.jp/2010/11/post_173.html
副題は「初等・中等教育における哲学・倫理・宗教教育の意義と可能性」というものだ。私は一聴衆として、このシンポジウムに聞き入ったが、たいへん示唆に富むものだった。 続きを読む
死生学におけるスピリチュアルケアの位置づけ
書評:釈徹宗『不干斎ハビアン』新潮選書
『日本海新聞』2009年3月8日号、『長崎新聞』2009年3月29日号、他。 続きを読む
『国家神道と日本人』への批評について(2)――子安宣邦氏の再論に応答する
10月10日に子安宣邦氏の「怒りを忘れた国家神道論――島薗進『国家神道と日本人』」という論説(第1論説)が、「ちきゅう座」(http://chikyuza.net/n/archives/3705)というサイトに掲載され、私はそれに対する応答を「『国家神道と日本人』への批評について――とくに子安宣邦氏の論説に応答する」と題して、私自身のこのブログ「宗教学とその周辺」に掲載した(第2論説)。これについて「ちきゅう座」から掲載の要請があり、私はそれに応じた。続いて、10月29日づけで「ちきゅう座」に子安氏の「イノセントな学者的欲求が犯す罪─「怒り」の理由」と題する島薗批判の再論が掲載された(第3論説)。この第3論説は私の論旨への誤解、無理解、および現在の国家神道をめぐる論争状況への誤解、無理解が顕著に見えるので、この論説で応答しておきたい。 続きを読む